好きなモノを着る、という基準
僕にとっての服飾品の位置付け
昔・・・といっても数年前のことですが、それこそアメカジからブリトラまで、とにかく幅広く網羅しなければ、と躍起になってあれこれ手を出していた自分が、最近になりようやくカテゴリを意識することなく「好きなモノを着る」という、1歩突き抜けた感覚に至っています。
そうは言っても、元々ファッションに疎く、お洒落音痴の自分にとって、カテゴリでまとめた方がまだ少しはマシに見えるかもしれず(現に自撮りをしても客観視すればイマイチなことの方が多く)、果たして正しい方向に向かっているかはまた別の話なのですが・・・。
「身嗜みを整える」「お洒落をする」ということについては人によって様々な価値観があると思います。
パートナーや家族、一緒にいる人に恥をかかせないように、なんてキザな意見もあれば、単に趣味だという着道楽だって当然います。
自分にも同じ問いを投げかけてみた時、パートナーのためならいささかお金をかけ過ぎているし(嫁さんに金額を買値の半額以下で申告したとしてもこっぴどく怒られる)、趣味というにも一貫性のない品揃えと冴えないコーディネイトは自分でも閉口することが多く、趣味の域への昇華し切れていないことは自覚済み。
突き詰めて考えた末、自分にとって服飾品は「好きなモノを大切にして、長く着ることを楽しむこと」だという思いに至りました。それと同時に「服飾品も”投資”の一環」と、どこかで常に考えていることにも気がつきました。
服飾品を「一生モノ」なんてことを言うつもりは毛頭ありません。モノにも寿命があります。服飾品は消耗品の最たるモノですから、綻びたり、カビたり、虫に食われたり・・・。でもそれらのケアもひっくるめて丁寧に扱うことが楽しい。
ウォーレン・バフェットがブルーチップ銘柄を保有し続け、ROEなどに基づき思い描いた成長曲線の通りにリターンを長年に渡り享受し続けるように、自分もまたモノを身につけている間、想定される効果(着心地や求める機能性など)や反応(人からどう思われたいかなど)を期待しているのです。
だから、流行り廃たりのない、もしくは自分の中で変わることのない基準に合致したモノを集めてしまうのだろうと(そういうと一貫性のない買い物の言い訳をしているようですが。パッとしないのはモノでは無く、あくまで自分のセンスの問題)。
仮に、いくら良いモノでも、割高で長期的リターンが望めなかったり、価値変動が激しい(流行に左右されやすい)ような場合は手を出さないし、逆に自分が気に入ったモノなら少々割高でも無理して身につけるべきだと思えるのです。
ファストファッションの実用性と費用対効果は絶大だけど、それを着て得られる自分自身のモチベーションや周囲の反応などの期待リターンが低ければ、やっぱりそれは投資ではなく実用性のみを考慮した消耗品なのだと思っています。
ファストファッションが良い悪いではなく、同じことはハイエンドブランドにだって言えるわけで、そのモノに期待リターンが見込めるなら資産の部に入れて少しずつ減価償却、無ければ最初から費用の部ってことになる。結局期待リターンは人それぞれなわけです。
「そんなのは人の気の持ち様だ」と言われればまさにその通りで、”好み”や”思い入れ”といった個人の感情的・直感的なモノは千差万別。しかし、それはとても流動的なようでいて、時代の流行などと比べればよっぽど普遍的なような気がします。
自分の言う服飾品に関して「投資」としてのリターンを生み続けるためには、まずはそれを着続けなければいけない、それもできるだけ長く。だからでしょうか、そのモノの生まれた背景がことのほか知りたくなるのは。自分の中で”好み”の裏付けや”思い入れ”を確固たるものにするために。
価格を理由に買ったモノは思い入れが薄くいつか飽きたり、お得感かあ買い集めたモノですぐに飽和状態になり、せっかく安く買っても買値よりずっと安く、二束三文やタダ同然で手放す。費用対効果もモノを手放すまではわからないと経験則で学んできました。
それならば、実用性があることは大前提だけど、モノに溢れたこの時代だからこそ「購入判断に価格で迷うようなモノを買う」、それくらい気に入ったモノを着ることが「投資」という価値判断で服飾品を買い集める自分にとっては、最も長期的に利益を享受することができるのだと思うのです。
・・・まとまりがなくなったのでこの辺で。
2014年12月17日