所有欲求と管理適性との均衡について
20代は所有欲求を満たすためにかなりの数の革靴を買い揃えました。
日米英問わず「良い」と聞くブランド靴にはとりあえず手を出しては所有欲求を満たし、またその頃は手入れをするのも楽しくて、磨かれた靴がシューズラックに整然と並んでいるのを眺めては満たされた気分になったものです。
しかし、子どもが生まれ、自分だけの時間が取れなくなってくると、真っ先に犠牲になったのはモノをケアする時間でした。
履いても履きっぱなし、週末のケアもブラッシングのみという日が続き、管理も段々とずさんになり、きちんとケアできないことへのもどかしさと、モノからどんどん気持ちが離れていくことへの喪失感に苛まれていきました。
人にはそれぞれ管理することのできる適性な数や量があるのだと思います。そしてそれは、所有することよりずっと難しい、継続的な管理適性が求められているのだとも思うのです。
その管理適性には、管理するためのスペースやメンテナンスに割ける時間、そして管理する上で必要な費用負担など、時間的・経済的な環境や能力を指しますが、その全てにおいて今の自分にはその力が落ちていると感じるのです。
また、こうも考えています。「使うこと」と「手入れをすること」はセット論、表裏一体だと。
モノは使わなければ手入れもされず、いずれ放置され、価値を失っていくことになる。これも過去の経験から学んだことです。
実際問題、雨の日を避けて大切にしている靴だって、大切にするあまりずっと履かないでいればそのうちカビは生えるし、一方で雨でも気にせずガンガン履き、都度頻繁に手入れをしていればますます円熟味を増し鈍い光を湛えます。
どちらが自分にとって、そしてモノにとってもイイことかは言うまでもありません。
無理に手放す必要はありませんし、ミニマリストになるつもりもありませんが、そんな気付きもあり、この2~3年、数は減らすことはあれど新たに増やすことはありませんでした。
今後も自分の管理適性に合った数に収めるべく、定期的にモノの見直しをしていますが(現にこの夏もまた、登板機会のなかった靴を少しだけ手放しています)、それでも履くものに困らない程度にはまだまだ多いです。
所有と処分のサイクルは生きる上で不可欠なことですが、モノを失うことで得られるのは少しばかりのお金だけではなく、管理に要する時間や空間、残されたモノへの一層の愛着や信頼へと繋がります。
だから、神棚靴は勿体ぶらずどんどん履く、履かない靴は処分する。
靴に限らず、洋服でも本でも何でも同じこと。自分に役立つモノだからこそ、なるべく自分の手の届く範囲に置いておきたい。なるべく多く触れていたいと思うのです。
・・・そんなことを、夜な夜な靴を磨きながら取り留めもなく考えていたら、いつの間にか日付が変わり、時間が走り去っていきました。