静かに刻む時を
時計の存在意義について
不順な天候が続く7月。
いつも以上に天気予報に注視しながら、今日はどの靴を履こうか、服は何を着ようか、と思い悩む毎日。
雨が降るならコードバンはもちろん、雨に濡らしたい靴なんてありませんから、自然と雨靴ばかりに偏ってしまいがち。もちろん洋服も同様。
しかし、最近は時計が増えたことで選択の幅が広がり、そんな鬱蒼とした気分を少しばかり紛らしてくれます。
(3本となり選ぶ楽しみが広がった)
オールマイティーに使えるOMEGA(オメガ)のスピードマスターを中心に、ドレスダウンならIWC(アイダブリューシー)のポートフィノ8デイズ、そしてきちっとしたスーツスタイルならBlancpain(ブランパン)のヴィルレと、毎日選ぶ楽しみが増え、静かに喜びを噛み締めています。
(過去の記事)
(シンプルながら飽きることのない3針)
中でも最近仲間に加わったヴィルレには、ついつい手が伸びてしまいがち。
文字盤を放物線状に走るギョーシェ彫りは光の具合で表情が変わり、どんなに見ていても飽きることはなく、気付けば何度も覗き込んでいる自分がいます。
また、スピマスもポートフィノもスモールセコンド(秒針が独立した機構)だったせいか、ヴィルレのように3針時計は初めてで、それがとても新鮮に感じさせるのかもしれません。
(手巻きも自動巻きとは異なる魅力が)
自分はどうやら「腕時計」という対象に対して、時間を知るためのツールとしての役割やファッション性以上に、自分の人生を映す象徴的存在であると定義付けようとする節があります。
それは恐らく、洋服などと比べ、時代を超えて残すことのできる時計の不変性(恐らく自分が死んでも子どもに形見分けできる程度には)に対し、思いを託し、個性や人生を重ねようとしているのだろうと思います。
不変性だけならば宝飾品でも構わないのでしょうが、そこに「時を知る」という実用性が伴うところに、宝飾品とはまた違った時計の魅力があるのではないかと、最近になり段々と感じ始めています。
(人生の節目ごとに増える時計)
価格やメンテナンスまで考えると、時計を何本も持てるほど余裕はありませんし、その必要も感じていません。
しかし、自分が生きた時間を象徴するような時計を手にすることは、道具とは違った存在意義があり、また新たに時計を手にしようとする衝動は、自分の中である変化が生まれているからだと感じるのです。
就職・結婚・出産と、これまで人生の節目ごとに起こってきた衝動。
それならば、「時計を買いたい」という衝動に駆られることは、自分の中で何かしらの変化の現れであり、むしろ喜ばしいことなのかもしれません。
これでもう打ち止めとなるか、それともまたいつその衝動に駆られるかはわかりませんが、それぞれに思いの詰まった愛着深い3本を前に、そんな思いに至るのでした。