【ふくはうち#10】「ふく」を「うち」に詰め込んで

ファッション 小物・アイテム

「ふくはうち」の趣旨と前走者gruffunaさん

「ふくはうち」企画も終盤。新型コロナウイルスにより外出自粛が求められる中、「同じ趣味の人たちの、ちょっとした時間を救いませんか?」というコンセプトのもと、総勢13人でつなぐブログのリレーです。

第9走者「sing like Green age!」のgruffuna(グリフナ)さんからバトンを託されました。実は今回、この企画に参加するに当たって是非お声掛けしたい人がいて、それがグリフナさんでした。

モノが美しくエイジングする過程を克明に記録したグリフナさんのブログを多くの人に見てもらいたいという気持ちと、この機会にお近づきになれれば・・・という個人的な下心を込めて。

A.P.C.やリゾルトなどのジーンズや、パラブーツやサンダースなどの靴のエイジングはいずれもため息が出るほど美しく、思わず見惚れてしまいます。

また、裾丈9.5分丈理論など、考え抜かれた確固たるスタイルを確立されており、パンツの裾の始末にいつも迷う僕は毎回羨望の眼差しで読ませてもらっています。

今回はそんなグリフナさんからつないでもらったバトンですので、モノの価値とエイジングについて少し思いを巡らせてみたいと思います。

モノの価値は生産性にあり、エイジングの美しさは正しく使われた末に宿る

人が身に纏うモノや使う道具に心惹かれます。道具が道具としての本来の役割を全うすることで得られる変化。正しく擦り減り、正しく劣化する姿、その過程の刹那の表情に魅了されます。

「涓滴岩を穿つ(けんてきいわをうがつ)」ではありませんが、使い続ける中で流れに抗わない静かで自然な変化(擦り減ることでより握りやすくなり、膝に当たりが出ることでより履きやすくなるといった)が好きで。

使い続けることで更にその人に寄り添うように変化し馴染んでいく過程にはそれぞれの物語があり、またその人の使い方や癖、性格などが如実に体現されるのを見るたび、購入した時の姿が完成形ではないと強く感じます。

モノの本当の価値は、使い続ける中で次の新たな価値を生み出すことで見出されるものだと思います。その新たな価値とは、直接的なモノでも副次的なモノでも感情的なモノでも構いませんが、使わなければ新たな価値を生まず存在価値は限りなくゼロになると考えています。

いくら芸術的なビスポーク靴だろうと、高額なハイブランドの洋服だろうと、身に着けることで手に入れた時以上の価値を生まなければ単なる浪費に過ぎません。

決してミニマリストではないので、投げたブーメランが自分に返ってくる前にこの話は一旦切り上げようと思いますが、この「stay home」の期間は、慌ただしさに流されて気付き難かった身の回りのモノを改めて見つめ直す良い機会だったように思います。

確かにモノは使えば使うほど消耗しますが、それは何だかトレードオフの関係のようでいて、実態はちょっと違うと思っていて。その変化は本来あるべき真っ当な変化であり、その変化の影には新たな価値を生み出してきた証左なのではないかと。

正しく使われ、新たな価値を生み出してきたモノの変化には心を惹き付ける特別な雰囲気が漂います。その表情を見るたび、消耗とエイジングは似て非なるものなのだと気付いてから、高価でも臆すること無く使うことができるようになりました。

余談ながら、自分のカラダは道具の最たるモノだと考えています。自己実現のために最大限活用すべきモノ。そのためにもパフォーマンスを発揮できるよう鍛え、日々メンテナンスし、その身体を所有することに満足する。ランニングを続けるのも、モノを愛するのと同じ延長線上に存在しています。

そしていずれその時が来たら「おかげで人生を謳歌することができました」といって返したい。「こんなにボロボロになっちゃったけど、結構良いエイジングしてるでしょ?」なんてちょっと得意げに冗談を言いながら。

年明けから面白い本に連続して当たっています。今回の本は「『死』とは何か イェール大学で23年連続の人気講義(日本縮約版)」。これまで哲学とは無縁でしたが、興味深く読み耽りました。目次を開けると、死とは何か、私たちには魂があるのか、死は悪いものなのか、永遠に生きるのは良いことなのか、死ぬという事実をどう受け止めるべきか、死ぬという事実を踏まえてどう生きるべきか、自殺は許されるのか等々、興味深いテーマが並びます。タブー視されがちな「死」というテーマについて、実にあっけらかんと多様な比喩を交えながら死...

「ふく」を「うち」に詰め込むカバンの話

さて、この企画の参加するに際し、何を書こうかと辺りを見回した時、日常的に用いるモノの中で最初に浮かんだのは靴でも洋服でもなく、鞄(カバン)でした。なぜカバンなのか。

1つ目の理由は、靴や洋服よりも一緒にいる時間が長いということ。カバンは靴や洋服のようにローテーションすることなく、週5日、常に持ち歩きます。以下は以前ご紹介した僕の携帯品。どれも愛着ある手放せないアイテムたちです。

2つ目の理由として、これら「新たな価値」を「ふく」だとしたら、「ふく」を生み出す道具を「うち」に入れて持ち運ぶカバンはまさに今回の「ふくはうち」のテーマにも合っているかなぁと思ったこと。少々強引ですね・・・(苦笑)。

ただ、このブログでもカバンはあまり取り上げないこともあり、ちょうどいい機会なので、愛用するカバンをご紹介したいと思います。

僕にとってアガリのカバン

例えば、初めて買ってもらった学習机時、真っ先に引き出しに大事にしているモノをしまい鍵をかけた経験ってないですか。自分の大切なモノをしまっておく場所があることってすごく嬉しかったことを覚えています。

カバンにモノを収納するのってまさにそんな感覚。自分の使い慣れたモノや愛着のあるモノを詰め込んで持ち運ぶための器。与えられた使命はただそれだけの単純なものなんだけど、大切なモノを運ぶからこそこだわりたいという気持ちがあって。

元来保守的な人間ですから、移し換えそびれて、あるはずのモノを入れ忘れるのも嫌だし、簡単にカバンをとっかえひっかえしたくない。宝石箱はコロコロ変えるべきじゃないですから。

僕が愛用するカバン、それがBerluti(ベルルッティ)のE Mio(エ・ミーオ)です。靴や洋服については相変わらずフラフラしていますが、カバンだけは、僕の中ではもう「アガリ」でいいと思っていて。

「E Mio!(僕のもの!)」過去のブログを振り返ったら、2011年の年初からこのバッグについて言及し、つぶやいていました。2010年10月に登場して以来ずっと羨望の眼差しで眺めていた憧れの存在。資本の変化やラグジュアリー路線への転換など、近況動きの激しいブランドではありますが(いつの間にか銀座の並木通りにもビルができたようで)、その辺はもっとお詳しい方にお譲りするとして・・・。 Belruti(ベルルッティ)/E Mio(エ・ミーオ) Color:Caramello長年熱望していたレザーバッグ(ブリーフケース)、行き着いた先はBerluti(...

ため息が出るほどに美しいカバンですが、傷にはめっぽう強く、爪を立ててもすぐに消すことができます。決して収納は多くないけれど、そんなに持ち歩く必要ある?と逆に気付きがあり、減らすほど。

アガリでもいいと思えるカバンに早い時期に巡り合えたことは自分の人生においては幸運だったな、と思っています。美人に接するのはいつも緊張しますが、接触を重ねるごとに打ち解けていきます。要は慣れですね。

人に与えられた限りある時間の中で、妥協したモノ・服・靴を身に纏い過ごすことほどもったいないことはないと、齢を重ねるごとに感じますし、できる限り多くの時間を自分が納得するモノ、満足するモノに囲まれて過ごしたい。

エ・ミーオはまさにそれらを構成する一部であり、収納し束ねる存在です。

「満足感」という尺度のない副次的で感情的ながら重要な価値基準

モノの価値には多様な側面を持ち合わせています。道具としての実用性や佇まいの美しさ、中にはリセールバリューという人もいるでしょう。

しかし、それだけでは語れないもう1つの側面、それが使う本人の満足感だと思います。それはとても曖昧な定義で、モノに溢れた時代、おざなりにされがちな部分でもあります。

モノを通じて得られる満足感は自己肯定に繋がります。モノを所有・使用し、身に纏うことで得られる高揚感は自らを一段の高みに引き上げ、心理的にも行動面にもプラスに作用します。

その効果は副次的だけど、大変重要で道具としての本来の価値と同じくらい大きな影響をもたらしてくれます。それはモノに“依存する”のとはちょっと違う、実際に使い“共生する”ことで得られるメリットです。

モノから得られる高揚感。ある人は特定のブランドかもしれないし、ある人は特定のプロダクト(一点豪華主義)かもしれない。特定の素材や特徴的なディテールに反応する人もいるかもしれません。

そして、作り手の込めた思いを汲み取り、共感することでモノへの敬意と身に纏う喜びを見出す人も。

そのトリガーは千差万別ですが、どうせなら自分のお気に入りのモノを常に触れていたい。人に与えられた限りある時間の中で、今しかないこの時間に妥協したモノを身に纏うことほど残念なことはありませんから。

この新型コロナウイルスの自粛ムードが去ったら、自分たちが心から望むとびきり上等なモノを買い求めてみてはいかがでしょう。気分も揚がり、実用性に富んで、見た目にも美しい何かを。四六時中身に着けていたいと思える何かを。

そのためにも今は、今身の回りにあるモノを見つめ直し、自分が求めるモノを問い掛けてみましょう。緊急事態宣言が解除されたとはいえ、まだまだ「stay home」の今、考える時間だけは持て余すほどたくさんあるのですから。

#11 次のバトンはエンドウダイキさんへ

モノに対する価値感は人それぞれで、決して答えがあるものではありません。デザインや価格など表面的な面でしかモノを見ていなかった人にとって、満足度に繋がる高揚感のトリガーは何か、未だぼんやりしている人も多いはず。

そこで、次のバトンをエンドウダイキさんに託し、その解を導くヒントを彼のNoteの中に見出していただきたいと思います。

「僕らが纏うモノ」をコンセプトに、モノの裏側へ視点を向けるための取り組みを実際に立ち上げ、精力的な活動を行っているダイキさん。

彼らが警鐘を鳴らすのは、「“ストーリーあるモノ”、“ストーリーのあるブランドのモノ”を手に入れることに満足感を得てしまい、実はその本質を手に入れていない」のではないかということ。

その鋭い切り口と確信を突く提言に「ドキリ」とさせられることばかりで、モノの本質や関わり方について考えるきっかけを与えてくれます。

そして、解像度を高めることで湧き上がる、モノに対する敬意。それはモノを愛することに繋がり、回り回ってそれを身に纏う自分をも肯定する、そんな好循環を生んでくれるはずです。

第2回オボイスト会で直接お会いし、お話をさせていただきましたが、物腰柔らかで洋服好きの好青年。しかし、身に纏うモノへの強いポリシーと信念、そしてそれらに突き動かされるような行動力には感嘆すると共に、その活動を心から楽しみライフワークとされている姿にジェラシーにも似た羨ましさを感じます。

こちらは実際にモノづくりの現場を見学する企画を実施した時の様子。当たり前に着ているモノが実際に作られる現場を見れば、否が応でも感じ入ることは多いですね。こうしてアップされた動画を拝見するだけでも感慨深いものがあるのですから。

最近も服(シャツ)を一から作るプロジェクトを立ち上げ、即日定員に達するほどの人気ぶり。その営利を抜きにした、モノの本質とまっすぐに向き合う姿勢に多くの共感を呼び、その輪がどんどんと広がっています。

そんなダイキさんですから、きっとまた違った角度からモノとの付き合い方を語ってくれるはず・・・!

ここまで散文的でまとまりのない長文に辛抱強くお付き合いいただき、心から感謝申し上げます。いよいよ「ふくはうち」も残り3人を残すのみとなりました。いよいよラストスパート、どうか最後までお楽しみください。

それではエンドウダイキさん、よろしくお願いします!

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